りんご。 紅い光沢をもった、ツヤツヤとしたりんご。 酸味と甘みがほどよくきいた果実。 りんごに、罪はなかった。 むしろ、どうやってりんごに罪を問えというのだ。 りんごに生命はないし、ただの食物だ。 デザートの他にも、普通の調理にも珍重される、りんご。 マリナは、目の前に置かれたトレイの上に乗ったリンゴから目が離せなかった。 最初は、刹那の部屋で一緒に寝起きをしていた。 けれど、戦闘状況にもある中、男女が同じ部屋で寝起きを共にするなど、普通ではないという意見から、 マリナには誰も使用していない部屋を宛がわれた。 刹那から離れることは寂しくはあったが、朝には刹那が起こしにきてくれる。 無表情の刹那は、昔と比べ本当に成長した。 もともと生まれた国のわりには背が高いほうのマリナである。マリナと比べると昔の刹那も背は高かったが、今では見上げなければ 視線を合わすことができない。 少年期を終え、青年期に入った刹那は、マリナの目からみても大きく成長した。 それは肉体的なものだけではなく、精神的な面でも成長していた。 一人で不安がり、眠りにつけずにいるマリナに、刹那はホットミルクを入れてくれた。 会話はそれほど弾まなかったが、刹那の傍にいると安心した。 無言でも、傍にいてもらえるだけでありがたい。 マリナは、りんごと睨めっこしていた。 それは、刹那がもってきたものだ。 「マリナ・イスマイール、夕飯だ」 居候の身で、堂々と食堂に行くことに逡巡していたマリナを気遣って、刹那が夕食をマリナの部屋に持ってきてくれた。 「ありがとう、刹那」 そういって受け取ってはみたものの、いざトレイの中身を見てマリナは絶句した。 トレイには、水の入ったコップと、りんごがのっていた。 いくら居候の身とはいえ、夕飯にりんごだけというのはあまりではないだろうか。けれど、文句を言える身分ではない。 マリナは無言でトレイを受け取って、りんごを手にした。 皮もむいておらず、食器さえない。 皇女として育てられたマリナに、りんごにかぶりつくという思考はなかった。 過去に、デザートとしてだされたリンゴはいつも綺麗にカットされていた。 「どうした。りんごは嫌いか」 「いいえ。嫌いではないわ」 首を傾げる刹那に、ちゃんとした夕食を持ってきてくれと内心では叫んでいたが、所詮は居候。強く強調できなくて、言葉にならない。 「刹那。その、夕食はこれだけ……?」 それでもやはり我慢がならず、マリナは刹那を見上げた。 「りんごは嫌いか」 「いいえ」 「なら問題はないだろう」 支離滅裂。 形だけは会話の受け答えになっていたが、意味が通じ合っていない。 「マリナ・イスマイール姫。夕食を持ってきた。すまないが、扉を開けるぞ」 部屋の外で、高くも低くもない綺麗な声がした。 「あ、はい、どうぞ」 返事を返すと、ティエリアが現れた。 マリナは、背の高いとても美しい女性だな、と静かに感嘆した。 ティエリアは手にしていた夕飯の入ったトレイを、静かに机の上に置いた。それから、きつい眼差しで刹那を睨み付けた。 「刹那・F・セイエイ!全く、またロックオン・ストラトスの冗談を真に受けたな。りんごを夕食に差し出すなんて、マリナ・ イスマイール姫に対する侮辱ととられられても仕方ないぞ。聞いているのか、刹那・F・セイエイ」 ティエリアの言葉に、刹那が暗くなった。 「俺はまた、からかわれたのか」 「そうだ。気をしっかりもて。あの人のいうことが真実か冗談かであるかくらい、ちゃんと見極めるんだ」 「難しい」 「全く……」 ティエリアはため息をついた。 「りんごは、おいしいのに…」 マリナの手からりんごを受け取って、刹那は呟いた。 刹那はりんごが大好きだった。幼い頃からの好物だ。 「確かに美味かもしれないが、デザートだ」 刹那とティエリアのやりとりに、マリナは入っていけなかった。 二人が醸し出す雰囲気が、あまりにも仲のよいものにみえて、またマリナの目から見てもとてもお似合いのカップルに見えた。 「あの。ティエリアさんは、刹那の恋人なんですか?」 思い切って、マリナは聞いてみた。 もしも恋人同士なら、刹那に淡い恋心を抱いている自分は邪魔でしかない。 その言葉に、ティエリアがこけた。 「あ、大丈夫ですか!?」 心配するマリナを他所に、ティエリアはしばらくこけたままだった。 「〜〜〜〜!!!」 ふるふると震える細い肢体に、刹那が手を伸ばす。 「大丈夫か、ティエリア・アーデ」 「大丈夫じゃない」 落ちた眼鏡をかけ直すティエリア。 その仕草さえも可憐なものに見えて、マリナは少し嫉妬した。 神は、どうしてこんなにも完璧な美貌を、目の前の少女に与えたのだろう。 刹那よりも8つも上の自分は、容姿こそ悪くはないが、とても目の前の少女に適うものではない。 10人の人間に聞けば、きっと10人全員がこの少女のほうが美しいと答えるだろう。 「ティエリアさん!私、その、負けませんから!」 強い決意をするマリナ。 分かっていない刹那は、ティエリアの手を握ったまま、無表情で首を傾げるだけだ。 その手が離れないことに、マリナは余計にこの少女に負けてなるものかと、強く思った。 ティエリアは、またこけた。 よくこける人だなと、マリナは思った。 それでも怪我をしないなんて、とても器用だ。 ティエリアは、酷い頭痛に苛まれているのか、頭に手をやって苦しそうにうめいていた。 「マリナ・イスマール姫。勘違いをしてもらわないでいただきたい。僕は、これでもれっきとした男性だ。刹那・F・セイエイとは同じガンダムマイスターであり、大事な仲間で友人ではあるが、 恋人同士だということなどありえない」 「え!女性じゃないんですか!?」 てっきり女性だとばかり思い込んでいたマリナは、ティエリアのうめきに目を見開いた。 美しい少女が、少女ではない。 少年に、けれど神はなんという華やかで完璧な美貌を与えたのだろう。 マリナの声は少し高くなっていた。 そして、自分の勘違いを恥じた。 ティエリアの容姿をまじまじと見つめ、隣に立ってティエリアを心配そうに気遣う刹那に、今度は視線を移す。 「ティエリア・アーデの言っていることは本当だ。彼は男性で、俺たちは恋人同士じゃない」 刹那の言葉に、マリナはいけないとおもいつつも、心のどこかで安堵のため息を漏らした。 とても適わないと思っていたライバルの性別は、女性ではない。 ティエリアが咳払いをした。 「夕食は、ここに置いておく。君は、僕と一緒にくるように」 刹那に説き伏せる必要があった。 世間知らずのお姫様を叱るのは、刹那の役目であって、ティエリアの役目ではない。 その時、扉が開いた。 自然と、誰もがそちらを振り向く。 「よー、刹那。中東のお姫様に、りんごだけ夕食に出せば喜ばれるってのは冗談で…」 入ってきたライルの頭に、刹那の投げたりんごがヒットした。 「あいて」 ついでに、ティエリアがりんごがのっていたトレイを投げた。 それも見事にヒットして、ライルが小さな悲鳴をあげる。どうも、角がぶつかったらしい。 「ロックオン・ストラトス。僕と一緒に、来ていただけますね。今度という今度は、ただではすませませんよ」 怒りのオーラを立ち上らせたティエリアは、綺麗な美貌に怖い笑みをはりつかせて、ライルを睨みあげた。 「あちゃー。かわいい教官殿も、一緒だったのか」 やばい。 逃げ出したい衝動をおさえて、ライルはティエリアの怖い笑みに、ちょっとだけ震え上がった。 できることなら、自室に帰ってロックをかけたい。 かわいい教官殿は、見た目の繊細さとは裏腹に、説教がとても長い。それに、刹那やアレルヤには振るわないのに、 叱咤と一緒に時折ビンタが飛んでくる。それを避けると、今度は蹴りが飛んでくる。それも訓練されたライルは避ける。 すると、ティエリアは「君いう人は、これだから……!」と零して、今にも泣きそうな表情になる。 それが、ライルには苦手だった。 ティエリアに泣かれるのが、ライルにはなにより困ったことであり、涙をみるととても良心が痛んで、軽るはずみだった自分の行為を恥じると同時に、抱きしめてやりたくなった。 抱きしめると、離せと、ライルの腕にかじりつく。最後はポカスカと頭を叩かれる。最後には手に負えなくなって、ライルは降参の音をあげる。 「僕が担当だった報告書を、君に書かせてあげましょう。終わるまで、眠らせません。食事を取ることも許しません」 嗜虐的に、石榴の赤い瞳が、ルビーのような輝きを放った。 「ティエリア・アーデ。ロックオン・ストラトスと、仲良くすべきだ。喧嘩はよくない」 ライルの冗談の生贄になった刹那だったが、どうしても被害者という気持ちになれない。 ライルはとても明るくて、冗談の好きな、刹那にとっては憎むことのできない相手である。他のマイスターも憎むことができないが、とりわけライルは刹那をからかって遊ぶくせがある。だが、何度騙されて痛い目を見ても、無表情でそれを許してしまう。 痛い目とはいっても、子供の悪戯LVであって、怒る気さえしない。 兄のようだったニールとは違い、ライルは弟のようにさえ思える。 同じロックオン・ストラトスという名前と容姿を持っていても、その存在は正反対のようであった。 静かに怒るティエリアは、けれど刹那の言葉に同意はせず、落ちたりんごを拾いあげた。 すでに涙目なライルを連れて、マリナの部屋を後にする。 去っていく二人を追おうかとも思ったが、マリナを一人にするもの気が引けて、刹那は迷った。 「報告書は20ページです。書き終えるまで、教鞭をとってあげましょう」 扉ごしのティエリアに、ライルが簡便してくれよと、早速音をあげていた。 「ふふふ。ソレスタルビーイングって、思ってたよりみんな仲がいいのね」 マリナが微笑んだ。 「そうだろうか」 同意できない刹那。 ティエリア・アーデと今のロックオン・ストラトスは、何かとぶつかりやすい。 けれど、前のようにティエリアがライルを拒絶することはなくなった。会話だって普通にするし、笑い声だって普通に あげる。 精神面でティエリアを大きく支えていた刹那は、少し寂しい気がした。 刹那・F・セイエイと、金色が混じった石榴の瞳で、自分に助けを求めてくることが少なくなった。特に、ライルがティエリアを 医務室に運んだ一件以来、それは顕著なものとなっていた。 「刹那も、みんなと仲良くやっているようで、私はほっとしたわ」 「そうか」 夕飯を食べ始めるマリナに、刹那も心なしか優しい顔つきになる。 去っていく二人の会話が、どんどん遠ざかっていく。 刹那は、マリナに質問した。 「マリナ・イスマイール。りんごは好きか?」 「好きよ」 「そうか。俺も好きだ。後で、皮を向いてカットしたものをもってきてやろう」 「ありがとう。優しいのね」 「別に、普通だ」 「そんなことはないわ。刹那、あなたは優しい。その優しさが、もっと世界に向けばいいのに……」 声を落とすマリナに、刹那は沈黙する。 ソレスタルビーイングである限り、世界に優しくなどできない。 世界を、人を傷つけて、その歪みを正す。 これからも強いていくだろう犠牲に、涙など零している余裕はない。 刹那の代わりに泣いたことのあるマリナに、彼は心の中で感謝をした。 「マリナ・イスマイール。優しいのは、あんたの方だ」 戦闘しかない毎日に咲いた、小さな花。 その花を愛でるということを、刹那は知らないでいた。 マリナの淡い恋心が報われるのは、いつの日だろうか。まだ、誰も知らない。 |