沈黙の雨







その日の天気は、どしゃぶりだった。
大雨。天気予報では、晴れといっていたのに。朝は気持ちよく快晴で、空は紺碧をたたえて、一欠片も雨が降りそうな気配などなかったのに。

「・・・・・・・」

彼は、靴だけは耐水性のブーツを着ていたのに、傘もささずに街中にたたずんでいた。
いくら梅雨の季節だろうと、風邪をひくだろうにと、行きかう人が傘もささず、かっぱもきていない少女だか少年だかよくわからない中性的な美貌の彼を見て、驚きながらも去っていく。

ばしゃんと、水溜りの水が、車ではねられて、ブーツに泥を被せた。それさえも、どうでもいいように。
ただ空を見上げて、彼は黙していた。
薄暗い雲の向こう側で、凄い音と共にカッと光が瞬いた。
ゴロゴロゴロ。
雷の凄い音に、通りかう人、特に女性が悲鳴をあげて歩む速度をあげていく。

「・・・・・・・・・・・・・・」

沈黙。
彼の耳に、雷の怒号は届いていなかった。
空ろな瞳。いつもは朱色の、石榴のような色の瞳が、金色の人がもつには在りえない色で輝いていた。
イノベイターとしての、瞳。

ふと、彼は喫茶店の窓硝子に向かって微笑み、背伸びをした。
その窓硝子に映っていた人物も、微笑んで、窓硝子ごしに彼にキスをする。
触れ合えたのだと思ったのは瞬くよりも短い時間。
唇に触れるのは、冷たい温度。硝子の、大気に冷えた温度だった。

窓硝子に映った、愛しい愛しいその人は、雷の灯火と一緒に消えていく。
幻覚だった。
窓の向こう側には、誰もいない。
ただ、ちらちらこちらを気にするように、疎らに喫茶店の客が彼を見ていた。そして、羨望の眼差しで彼の、人間離れした美貌に酔いしれる。

「あの・・・」

喫茶店のアルバイターが、見ていられずに、彼に声をかけて傘をさしだした。

「濡れますよ。よければ、店の中に入りませんか。何も注文しなくてけっこうですから」

ゆらりと、彼は揺らめくように金色の瞳を彼に定めてから、また空を仰いだ。

「なんだ。幻か―――」

悲しそうに。
とても悲しそうに。

やっと見つけたと、思ったのに。いない。何処にも。
この地上にも、宇宙(そら)にも、あの人はいないんだ。

「あの・・・」

「俺の連れだ」

20代の青年の、声音がした。振り返ると、刹那が立っていた。

「刹那。――――僕は」

ふと、自分の姿に気づいて、彼、ティエリアはびしょぬれの自分の姿に、沈黙する。
長い沈黙だった。
その沈黙に全ての意味がこめられているようで。
喫茶店のアルバイターは、刹那が放つ威嚇のような鋭い視線に、声もなく店に戻っていく。

「帰ろう」

さしだされたもう一本の傘。
刹那も雨でびしょ濡れだった。
ティエリアの姿がないと気づいて、急いで町に探しに出かけたのだろう。ろくに傘もささずに、走り回って。泥で汚れた、冷たく濡れたコート。

「あの人と、帰りたい―――」

「それは無理だ」

きっぱりと断言する。
断罪するように、冷たく。
けれど、それをティエリアは受け入れる。

「ティエリア!」

アレルヤが、二人に気づいて傘を放り出しそうな勢いで駆け寄ってくる。

「刹那も!こんなに濡れて!」

「おいおい、簡便してくれよ」

「違う。あなたは――違う。彼じゃ、ない。あなたなんて、嫌い」

アレルヤの後ろに続いていたライルの姿を見つけて、ティエリアは唇をかみ締めた。彼と、あの人と全く変わらない色彩、容姿、声。でも、彼じゃない。それから、刹那がさしだした傘をひったくって、逃げていく。その後を、刹那が追いかける。
気づいていただろうか。ここに居る誰かが。いつもは、決して「あなた」という言葉をニールにしか使わないのに、ティエリアはライルをあなたと言ったことに。誰も気づいていないだろう。ティエリア自身すら、自然に口から出た言葉であり、気づいていなかった。

「はぁ。教官さんは、なんだぁ?まだ兄さんを探してるのか?」

軽く舌打ちするライルを、アレルヤがひっぱたいた。

「ライルが!あんな真似するから!」

トレミーから降りて、日本の刹那の自宅やらホテルで滞在し、任務の命令待ちであった。ホテルに滞在していたライルは、いつも自分に厳しいかわいい教官殿をからかおうと、亡き兄の形見だという服と同じ服を注文して勝手に作り、それを身につけて、ティエリアが滞在していた刹那の家のインターホンを鳴らした。

わざと、兄、ニールと同じような台詞を、仕草を、それから帰ってきたのだと、芝居を彼の前でしたのだ。彼が、そうされることを心のどこかで望んでいると知っているから。だから、わざと、した。

「・・・・」

ライルも沈黙する。殴られた頬をそのままに、流れ落ちてくる雨さえも沈黙してしまいそうな、そんな重い沈黙だった。

夢を見ているような、涙を流して「これは本当なんですか?」と囁いた、ティエリアの姿が、心に疼いた。酷い真似をしてしまった。まさか、あんなに乱心するとは思わなかった。まさか、本当に信じるのだとは思わなかった。すぐに、いつものように怒声を吐いて、「何を馬鹿な真似をしている」とどやされるかと思っていたのに。
彼は、泣いたのだ。
屑折れるように、自分の服を握り締めながら、声もなくないて、かけていた眼鏡を玄関において、そしてライルに抱きつこうとした。
ニールを装ったライルに、触れようとした瞬間、また泣いた。
号泣した。

「どうして――こんな真似を。そんなに僕が嫌いなのか、ライル。詰るなら直接して欲しい。言いたいことがあるならはっきり言ってくれ。どうして、こんな真似を―――」

そこで、彼の言葉は途切れた。
彼は、目の前のニールがライルであると分かっていて、目を閉じてキスをしてきた。驚いたのはむしろライルのほうだ。

「ほら。こんなにも、違う・・・」

あの人なら、優しく抱擁してくれる。こんな風に驚いて、言葉をなくすようなことはないだろう。
耳元で囁かれた、ティエリアと、愛しい響きを含めたライルの声音が消えなくて、ティエリアは雨が降っているのに、どしゃぶりの中傘も持たずに、ブーツだけ履いて外に飛び出していった。
途中から彼ら二人のやり取りを見ていた刹那は、ライルに、アレルヤに連絡してくれと、携帯と傘だけを持って、ティエリアを追って同じように外に走り出してしまった。

こんなことになるなんて、思っていなかった。
美しい彼は、怒って何をしているのだと、頭をはたいてくるくらいだと、軽く見ていた。
甘かった。
兄と彼が、恋人同士であり、そして死別してしまったことを、彼は兄の後を追おうとするくらいに、兄を愛していたのだと、今更ながらに事実をつきつけられる。
心が疼く。血の雨を流しそうなくらいに、後悔した。

刹那から連絡を受け、ライルと同じホテルに滞在していたアレルヤは、すぐにティエリアを一緒に探してくれると、それからライルの服を着替えさせておいてくれという刹那の注文にも頷いた。だが、アレルヤがまずは刹那の家に着いた時には、放心した様子で、けれどライルはすでにニールのいつもの普段着の格好から違う服装に着替えていた。
放心していたライルを促して、ティエリアを探すために町にでた。

携帯で、刹那がティエリアを見つけたと連絡をくれて、ほっと一息したのに。ライルをつれてきたのがまずかったのだろう。
ティエリアは、去り際、微かに涙を、雨の中に混じらせていた。
あれは、涙だ。雨ではないだろう。濡れた髪から滴り落ちた雫のように見えるけれど、あれは涙だとアレルヤは確信した。

「いこう。とりあえず、二人の帰りを待つために、刹那の家に。それから、ティエリアにちゃんと謝って。自殺するかもしれないって刹那から電話もらって、もう冷や冷やしてたんだから」

本当に。
彼が、心根の弱い人間であったら、とっくに自殺して兄の後をおっていただろうに。
強い責任感と、皆を守らなければならぬという、兄の意思を継ぐという志からそれすら、脳裏に過ぎることがあったかどうか。
とても強いのに、とても弱い。
硝子のように繊細なのだ、彼の心は。

中性と聞いて、興味がわかなかったといえば、嘘になる。彼と描写しても、正確には彼女なのかどちらなのかも分からない。性別が男性でないティエリアにとって、男性であるニールに恋し、そして恋人同士になったのは極自然な成り行きかもしれない。中途半端に女性化が進みながら、決して少女にはなれぬその身体。少年になりきることもできない。中性のラインから動くことのできぬ彼を、ニールは命をかけるまでに愛しただろう。ライルには分かる。兄とは長い間離れていたけれど。
もしも、自分がニール、兄だったら。全てをかけて、愛し守り抜いただろう。

「・・・・・・・ばっかだな、俺」

吐き出された言葉には、血が混じっていた。口の中を、自分で噛み切ったのだ。唇をかんで、それから口中を噛み切るくらいに、苦しかったのだ。

彼は、きっと永遠に兄の、ニールのものだ。その心を開くことはあれ、ニールから奪うことなどできない。それを承知のうえで、刹那はティエリアの傍にいる。
あれは比翼の鳥なんだよ。
そうアレルヤが揶揄していたのを、思い出す。
どちらか片方が欠けても、生きていけぬような。そんな存在。
だから互いを愛し、感情をぶつけあい、本心を曝け出す。だから、ライルは刹那に勝てない。
その刹那さえ、ニールには永遠に勝つことはできないのだから。



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「放って、おいてくれないか」

ティエリアは、走りつかれて、ガードレールに身を寄りかからせながら、傍らに佇む、緋色の目をした刹那に冷たく言い放つ。
まるでルビーのようだと、その瞳をいつも見ては思ったものだ。

「好きなだけ、泣けばいい。雨が隠してくれる、今なら」

ざあああと、雨が二人を打ち据えていく。

刹那は、よどんだ空を見てから、少しだけ息を吐くと、結局使わないままもたれたティエリアが、先ほど奪っていった傘を見つめた。
決して、自分の胸で泣けとか、我慢しろとかそんなことは言わない。ただ、俺がいるからという言葉を、我慢して飲み込んだ。

「強くなりたい。誰よりも、強く」

ザァァァァ。
雨が、重いその後の沈黙を濁らせる。

「いつか。あの人に、言うんだ。世界はこんなにも変わったと。いつか」

「ああ。だから、俺たちは戦っている。世界を変革するために」

「だから。その道を、君が照らしてくれ。君が、未来を」

本当はリーダーという位置には、生き残った仲間たちを支えて、ここまでソレスタルビーイングを率いたティエリアがするべきものだと思う。だが、刹那こそリーダーとなってくれと、ティエリア自身から頼まれた。邂逅した頃に。

大分やつれたと、思う。4年間という年月は、少年であった刹那を成人させ大人にし、そしてティエリアの時を止めたまま、確実に動いていた。
一度動きだした時は止まらない。
そう、この沈黙の雨のように。突然には、止まらない。

「ただ、覚えておいてくれ。お前の傍に、俺が居ることを」

濡れてしまったが、それでもましと、着ていたコートをティエリアの肩にかけた。そして、傘を開いた。

「知っている。君がいるから、今の僕はここまで強く在れた」

噛み付くようなキスを、二人はどちらからでもなしに、する。唇に触れる温度は、暖かくて。
涙が出そうだった。
沈黙の雨はまだやまない。

いつか、止んで太陽が笑う時がくるだろう。
時代にも、彼らにも。
その行き先は、まだ遥か彼方へと続いている。