機械じかけの聖女









GL注意
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機械仕掛けの聖女。
人々は、彼女のことをそう呼んだ。
かつて、この世界に存在した、異世界よりきたりしエーテルマリアという複数の聖女たちそっくりに、造られた彼女を。
今は、フェルトという名前を与えられている。教会から。名前はそれだけ。

かつてこの世界にいた、エーテルマリアたちは、人々を救済し、怪我や病気を治癒し、戦乱を治め、国を統治して、人々を未来へと導き続けた。
数百年にも渡って生き続けた、異界からの来訪者。
その死は、人々を嘆かせるには十分であった。
国の女王にまでなっていたエーテルマリアの死。突然の、暗黒。
世界に、ぽっかりと空洞ができたように、人々は迷い、聖女を求めた。
エーテルマリアのような、聖女を。
でも、どう足掻いたところで、もう異界からエーテルマリアは訪れることはなかったし、彼女たちは子を残すこともしなかったので、その子孫が人々を救済し導くことさえなかった。
教会の存在さえ、あやふやになりかけていた。
エーテルマリアは別名、金の天使とも呼ばれた。
金色に輝く、髪と瞳。神秘的かつ繊細で、優しげな美貌。
背中に一対の金色の翼をもち、聖女が人でない証であるかのように、その存在は人類を超越して、存在次元すら違った。

「………どうにも、エーテルマリアのようにはいかんなぁ」
彼女を調整していた技師は、優しげに微笑むフェルトの背中にある、金の翼を、それから全体をメンテナンスしてから、溜息を零した。
人々が求める聖女を。
教会が中心となって、造った。
人が、聖女を。機械じかけの心臓でできた、肉体のほとんどを有機物で作られたアンドロイド。
最先端の精霊科学を駆使して造られた彼女は、優しそうに微笑み、歌う。
禁断の霊子学まで使って作られた、バイオノイドに近い、機械仕掛けの聖女。
金の翼を作ることには成功した。でも、金の瞳も金の翼も、失敗した。色は鮮やかなまるで花のようなピンクの極彩色の髪に、緑の瞳。
優しげなその神秘的な儚げな美貌だけは、エーテルマリアを模しており、フェルトを造った科学者たちの意思そのままに。その背中にある金の翼も。
でも、これは偽者だ。機械仕掛けの人形だ。
微笑み、歌い、そして語ることしかしない。記憶回路がいかれているのか、何度か記憶させても、真っ白になってしまう。
それでも、ある程度の人格を植えつけることには成功した。
一部の記憶は、有したまま人々に接する。
「今日も祈りました。たくさんの人たちと」
フェルトは微笑むことしか知らない。泣くことも怒ることもない。
ただ、中央教会に聖女として住んでいる。
そして、神父たちと一緒に神に祈り、そして賛美歌を歌い、人々の悩みを聞き、導く。まるでシスターのような存在だけれど、彼女は機械仕掛けの聖女。
脈打つ心臓の変わりに、機械でできた時計のような核をもつ。

幼い顔で微笑む、出来損ないの聖女。
聖都では、フェルトより後に造られた、同じ機械じかけの聖女マリナが稼動している。聖都にある中央教会に所属しており、フェルトよりも人間らしく造られていて、より技術も高く造られた彼女の何号機かが、この今フェルトが存在する町の中央教会にも派遣される予定だ。

「用なしになる前に、人々にお布施をたれこむようにするかなぁ」
聖職者にあるまじき、言葉に、フェルトは微笑むだけだった。
「歌いますね」
「ああ、そうしてくれ」
聖職者である司祭は、彼女のメンテナンスを終えた、その疲労を彼女の歌で癒してもらっていた。
そのまま、あまりの透明な旋律に、こっくりこっくりとうたた寝をしだす。
フェルトは、司祭が眠ってしまったのに困ったような顔をしたが、毛布をもってきて彼にかけてやると、そっと部屋を出た。

「迷える子羊よ、何の御用でしょう?」
時刻は深夜だ。
もう教会を訪れる者もいない。
コンコンと、窓をノックされて、フェルトは窓を開け放つ。
ふわりと、花の香りがした。
緑の短髪に、紫の瞳。少年なのか少女なのか一目では判断のできない中性的な美貌。服装は少年らしい姿をしている。
活発そうな表情から、少年なのか、と思ったけれど、溢れる優しい雰囲気は冷たいようで柔らかくて、多分、少女なのだろう。
腰には剣を帯剣しており、完全に男装していた。
名を、ヒリング・ケアという。
フェルトが属する町の中央教会から少し離れた村に住む、孤児院育ちの少女であった。
「歌を歌って。なんでもいいからさ。これプレゼント」
摘んできた花束を、フェルトは嬉しそうにうけとって微笑み、ヒリングに椅子を勧める。
「いつもありがとう」
フェルトの部屋に、友人であるヒリングがいつものようにやってきたのだ。彼女の部屋は、ベッドと椅子とテーブル、ソファーと本棚。広いのに、生活の匂いがあまりしないけれど、花に溢れていた。
全て、ヒリングが毎夜もってきてくれる花を、花瓶に生けたものだ。
ヒルングは、椅子に乱暴に座って、ソファーにゆっくりと腰掛けた偽りの聖女、フェルトが歌う歌をずっと聴いていた。
心まで溶けそうな。
そんな、音だった。
優しいのに、何処か悲しくて。

「フェルト、大好き―――」
孤児院で育ったヒリングにとって、フェルトだけが唯一心を許すことができる存在だった。
同じ孤児院育ちの人間たちは、感情の起伏が激しいヒリングを毛嫌いしていたし、母や父代わりであるはずの大人たちからは、虐待を受けて育った。
金のあまりない孤児院なんて、そんなもんだ。
ヒリングが男装をしているのも、わざと美しい髪を短く切っているのも、全部幼い頃、大人の男に性的虐待を受けそうになった、そのショックからによるもの。
男に、生まれたかった。
ヒリングはずっとそう思っていた。
男なら、大人の男から、性的虐待を受けそうになることもなかったのではないかと。
未遂に済んだのは、他の孤児や大人が気づいたのではなく、ヒリングが、まだ幼い子供でありながら、隠し持っていたフォークで、襲ってきた男の両目を潰したからだ。
暴力的な行為が多かった彼女にとって、誰かを傷つけることなんて、道端の雑草を踏むようなものだった。
正当防衛。
それは立証されたが、他の孤児たちはヒリングを怖がり近づこうとしない。それまで虐待を加えていた大人の暴力もぱったり止まった。
襲われたその日に、ヒリングは長く美しいと孤児院でも有名だった、その稀有な色の緑の髪を、自分で鋏でぎざぎざに切って、綺麗な服を破り捨てて、泥を被った。
そんな姿で育ったので、少女として美しくなった後に、誰かから目をつけられることは皆無ではなかったが、また何かされそうになると、平気で手で目を抉ろうとするその残酷さに、孤児院の大人たちがヒリングを追い出した。
本当は、成人するまで保護されるべきなのだが。
だが、十代後半にまでなっていたし、国の援助金で、ヒリングは家を借りて独りで済み始めた。生活は荒み、麻薬にまで手を出したことがある。金もなかったが、身を売ろうとしたことはない。
旅をする金持ちを狙って、剣で脅し、金を巻き上げる。そんなこと、日常茶飯事だった。遠い街道でやっていることだし、顔を完全に隠し、いつもと違う巡礼者を装った女の姿でやっているので、ばれることはなかった。

でも、フェルトが街道を独りで通っていた時、彼女を脅して金を巻き上げようとしたフェルトは、驚いた。
背中に、金色の翼を生やしていたのだ。マントで隠していたけど、隆起したその膨らみを隠しきれるはずもない。
マントを剣で切り裂いた時。
「天使がいる」
ヒリングは、剣を落として、フェルトをじろじろと見てから、落としていた剣を拾って、これがかの名高き偽りの聖女、機械仕掛けの聖女かと観察した。
「私はフェルト。あなたは?歌を歌いましょうか」
「私はヒリング」
何故、その時フェルトに名を名乗って、素顔をさらしたのか。
今になっても、まだよく分からない。
偽りでも、聖女なら暮らしも楽なんだろうなと、彼女の後をついて教会にやってきて、私室に通されて、そして彼女の一日を見て、言葉をなくした。

本当に。機械仕掛けなんだ。
時折、ピタリと動かなくなる。瞬きすらしない。

また、動かなくなった。
歌うことを止めてしまった、フェルトの髪を撫でる。さらさらと、音をたてて零れていく。指の隙間から。
「私――何をしていたの?」
「歌ってたの」
「そう」
フェルトは微笑んだ。
怒ることも泣くこともない、フェルトは、ヒリングにとって人形のように見えたけど、人じゃないから、素直に接することができた。
聖女といわれるだけあって、とても心を癒してくれる。
「ヒリング。お茶をいれる?」
聖女としての振る舞いの言葉遣いをやめて、フェルトは台所までいって、ヒリングの返事も聞かずに、アッサムの紅茶を2つ、カップに入れてもってきた。
それを、ヒリングはあり難いと飲む。柔らかな味が舌に広がる。
「どうして、飲む必要もないのに、飲むの?」
「こうしていると、生きている、ように思えるから」
フェルトは、簡潔に答えた。
機械仕掛けのフェルトは、食物を摂取する必要などないが、お茶や水を飲むし、より人に似せて造られているので食事だってする。
全部必要ないことなのに。

生きている。
そのことに、執着しているのかと思うと、そうでもない。

「おかわりはいる?」
「いらない」
「そう。私はどうしようかな」
そういいつつ、コポコポとティーカップに液体を注ぐその仕草が愛らしくて、ヒリングは自然と笑みを浮かべていた。
荒んでいた独り暮らしに、まるで花が咲いたように、知り合いになったフェルト。
好きだと、何度言っても、フェルトは「ありがとう」と答えるだけで、私もだよとか、ヒリングが望んでいる答えをくれない。

「歌って」
「うん」
また、透明な旋律がフェルトの喉から零れだす。
ヒリングはそれに酔いしれて、気づくと朝方になっていた。まずい。朝になると、教会が活動し始める。神父やシスターはヒリングの存在には気づいていない。
夜は皆寝静まっているから。
寝ることのない、フェルトを監視する必要などない。これは人に害をなさないから、と。

ヒリングは、閉められていた窓を開けて、ざっと近くの木の幹に飛び移ると、手を振った。
「また、明日くるから」
「また………あなた、誰?」
ヒリングの紫の瞳が、悲しそうに伏せられる。
こうして、フェルトは機械仕掛けであることを物語るように、時折ヒリングの名すら忘れてしまう。顔も、存在も。でも、必ず思い出してくれるから。
だから、何度だって教える。
「私はヒリング・ケア。あなたの友達だよ」
「そう。私はフェルト。聖女」
「違う」
「何が?」
「お前は聖女じゃない、人間だもの」
「そう。私は人間なの」
ヒリングの言葉を鵜呑みするフェルトは優しく微笑み返してくれた。
彼女が、自分が人間であって、機械などではないと思って、微笑み返してくれるその優しい笑顔が一番好きだった。
「じゃ、また」
「さようなら」
フェルトは、名残惜しそうに手を振って、それから窓を閉めた。

「こんばんは」
また次の日も、その次の日も、毎日のようにヒリングは花を手にフェルトの元を訪れる。
「おかえり」
ある日、そう返されて、ヒリングは泣きそうになって、フェルトの華奢な身体を抱きしめた。
「どうしたの」
「涙でそうになる。その言葉」
「そう。おかえりなさい、ヒリング」
「只今、フェルト」
その日は、月が綺麗な日だった。
ヒリングは、フェルトを抱き上げて、窓から飛び降りて、彼女を連れ出した。
星が瞬き、月が涙を零している。
月光は薄く大地を照らし、世界そのものをゆっくり視ていた。
ホウホウと、梟のなく声がする。遠くの森から、狼の遠吠えまで聞こえてきた。
ヒリングは、その細い身体に何処にそんな力があるのだろうかという勢いで、フェルトを横抱きにしたまま、走り続けて。
そして、秘密の花園へ案内した。
いつも、そこでヒリングはフェルトのための花を摘んでいた。
かつて、この世界に存在したエーテルマリアの墓がある場所であった。そんなところに、エーテルマリアの、この世界にとってかけがえのない存在であった、本物の聖女の墓があるなど、他に知る者はいない。
その墓を見つけた時、呆然とした。
あまりに美しく咲き誇る花たちの海に。
月光は銀の雫となって、ゆっくり二人の少女を照らす。
どちらも美しいが、フェルトは儚い美貌を持っている。ヒリングはどちらかというと中性的で少しシャープな線をもっていて、目つきも鋭いかもしれない。反対に、フェルトは大きな零れるような瞳をしていて。まるで正反対のような位置にあるような、二人。
フェルトが優しい太陽だとすると、ヒリングは妖しい月だろう。
その月は、今は弓張り月だ。
少し垂れ込めた雲が、遠くまでたなびいていた。

風が吹いた。
サアァァと、いろんな色の花びらが、宙を舞って風に流されていく。
「好きだよ」
ヒリングは、同じくらいの身長の、フェルトの唇に、唇で触れた。
「好きって、何?」
「んとね、心があったかくなって、その存在でいっぱいになって、満たされること?」
幼子のような、フェルトの質問に、適当に答えるが、それがヒリングにできる精一杯の答えだった。
「愛してるんだ」
「愛は、神は人を愛しているわ」
「違う。そうじゃなくって。人が人を愛するように」
「人は平等」
ちぐはぐな会話。もう慣れてしまった。だって、フェルトは聖女で教会に属しているのだから、神の教えを説くのは当たり前のこと。
もう一度唇に唇で触れると、アッサムの紅茶の味がした。酷く甘ったるくかんじる。
背徳的な気分が、ヒリングを支配して、本当に男に生まれたかったと後悔する。
男なら、フェルトに堂々と愛を囁き、守ることもできるかもしれないのに。
その日は、そのまま教会に戻って別れた。

「また来たよ」
「あなたは、誰?」
「ヒリング」
「そう。私はフェルト」
何度も繰り返されてきた質問と答え。
フェルトの記憶に、ヒリングが完全に刷り込まれることはない。それは、いらない存在だから。
「ねぇ。どうして、いつも微笑んでるの」
フェルトを抱きしめて、ヒリングは泣いた。
「もうすぐ、神に召されるのよ」
とても嬉しそうに、フェルトは報告する。自分の終わりを。死を。いや、活動停止というべきか?
聖都にいる、新しい聖女マリナの何号機かも分からない分身が、この町にやってくることが決まった。即ち、フェルトはもう聖女としていらなくなって処分されるんだ。

偽りの聖女なんて、そんなものだ。
この世界には、代わりがあるのだから。

愛に、代わりなんてないのにね。

それを知ったヒリングは、いてもたってもいられなかった。
「逃げよう!」
「どうして?」
「いいから!」
ヒリングは涙を拭い捨てて、その晩、フェルトを連れ出して、貯金していた金を持って、二人で行くあてもない旅に出ようとした。
でも、フェルトは教会に帰りたがって。
そして、あの花畑にくると、フェルトは金の翼を広げて今までにないくらい、美しい歌を歌いだした。
もう、朝焼けも近い。
できるだけ、町から離れたい。
でも、フェルトはそこを動こうとしなかった。
「どうして。私と逃げるの嫌?」
「聖女は、最後まで使命を―――」
「そんなのどうでもいいよ!逃げよう!」
フェルトの手をとって、二人は走り出す。

それから、何日かが経った。
フェルトは、メンテナンスが行われないせいで、活動が止まる時間が多くなっていた。フェルトが望むので、またエーテルマリアの墓である秘密の花園に連れてきてあげた。
せめて、終わるなら綺麗な景色を見せてあげたい――。
「愛して、いるのに―――」
「ありがとう。私も、愛して―――」
フェルトは微笑んで、そして瞬くことさえ止めた。
必要のない呼吸が止まる。
月光に照らされた青白い顔。瞼を下ろしてやると、少しだけ動いた。

「ありがとう。あなたと出会えて、人にきっと、なれたかな?」
「なれたよ。フェルトはもう、人間だよ」
涙が止まらなかった。
「ほら、心臓が動いてるよ」
心臓がある場所に手を導かれると、カチ、カチと、時計が時を刻むような音と振動が微かにした。
「うん。あったかいね」
サァァァと、たくさんの花弁が天から雨のように降り注いでくる。
月光が一段と冷たく冴え渡る。
二人の運命を笑うように、月は輝き続ける。

「あなたは、ヒリング。私は、フェルト」
「覚えて、くれたの?」
「うん」
フェルトは微笑み続ける。その白い頬に、ヒリングの涙が落ちて染み渡った。

終焉の時を奏でよう。
フェルトは歌った。そして、歌がだんだん小さくなっていく。
ヒリングは、最後まで、彼女の歌声を聞いていた。
そして、完全に動かなくなったフェルトを腕に抱いて、朝を迎えた。

「行こうか―――」
フェルトの、もう動かない亡骸のような身体を抱いて、ヒリングは歩き続けた。
そして、数十年が過ぎた―――。


「おはよう。今日もいい朝だよ」
まだ少女の容姿を留めたままの、ヒリングは、椅子に座ったまま動くことのない、機会仕掛けの聖女フェルトの髪をブラシでといてやる。
その瞳が、緑色の綺麗な双眸がもう開かれることもなければ、自然に色づいた淡い唇が旋律を奏で歌うこともない。
腐ることもない、フェルトの、魂のなくなった身体。
同じように、年老いることも忘れた、ヒリング。
ヒリングの祖母はエルフだったらしく、彼女は覚醒遺伝したせいで、寿命が人間の限界をこえ、そして容姿さえ衰えることがなかった。
生計は、花を栽培してそれを売って、慎ましやかに動くこともしゃべることもないフェルトと二人で暮らしている。

世界に、再び新たなる聖女たち、エーテルマリアが訪れて数年が過ぎた。
偽りの聖女は全て処分されて。唯一、フェルトと名づけられた固体だけ、行方不明のまま。

窓を開け放つ。
室内はいつも、フェルトが好きな花に満たされていた。
「ほら、今年は朝顔が綺麗に咲いたよ。去年は虫にやられて咲くこともなく枯れてしまったけれど」
窓の外の植木鉢を指差すけれど、沈黙しか返ってこない。
もう慣れた。

粗末なパンとスープだけの食事をして、着替えて、そして庭の花を摘んで、最初にフェルトに見せようと思って、ヒリングはフェルトのいる部屋に戻った。
フェルトの身体が、反対位置にある。
不思議に思いつつも、元に戻して、花を売りに出かけようとして、誰かに服を引っ張られた。
「おはよう―――」
もう、止まったはずの、カチカチという、フェルトの機械じかけの心臓の音がする。
ヒリングは、開け放った窓から逆光の光を浴びて、数度瞬いて、それから、もう忘れてしまった、心からの笑顔と涙を流した。
「おはよう。寝坊したね。もう76年も経ったよ―――」
「そう。喉が渇いた気がするの。お茶を、もらえないかしら?」
「今淹れるから」
籠にいれた、今日売る分だった花を、フェルトにぶちまけた。
「あら?綺麗ね」
「全部あげる!フェルトのために、咲かせてたんだから。ずっと、ずっと――」
「愛を、ありがとう。愛しているわ」
フェルトは、そう言った。初めて、愛していると言ってもらえた。
「目覚めてくれて、ありがとう――」
ヒリングは、長くなった緑の髪を乱して、フェルトに抱きついた。

少しだけ、唇が重なった。
花の香りと、味がした。
不思議だ。
もう触れることさえ、髪をとくことしかしていなかったのに。
「お茶、私がいれるね」
フェルトが立ち上がり、ぎくしゃくとした動きでティーカップとポットを探す。
目の前に持ってきてあげると、微笑み返されてローズティーがいれられた。薔薇の花びらが浮かんでいる。売るために、切り取った花。今は床やフェルトが座っていた椅子に転がっている。

フェルトの金の翼は、76年もメンテナンスしていなかったせいで劣化してボロボロになって、消滅してしまった。本当に、人間のようだ。
でも、彼女は機械仕掛け。
人間ではない。どんなに、人間に近くなっても。
でも、それでいいと思う。
だって、彼女はもう聖女ではない。聖女ではない、ただの機械仕掛けのフェルト。
またいつ止まるか分からない。
それでもいい。
少しでも、同じ時間を共有できるなら。
二人は、庭で花を摘んで一緒に売るために手を繋いで歩きだす。
機械仕掛けのフェルトの身体は、翼以外は衰えることなく永久少女だ。同じように、エルフの隔世遺伝のヒリングも、永久少女。
二人の永久少女は、手を繋いで、月ではなく太陽の下を歩き続ける。
夏になったばかりの、少し暑い気候。快晴で空は紺碧を湛えてどこまでも澄んでいる。
蝉のなく声が少し煩かった。

二人は、静かに止まっていた時を廻し始めた。
それは、不確かであるが、多分未来へと、続いているのだろうから。そう、時計に似た、機械仕掛けの聖女であったフェルトの心臓のように、カチカチと針を動かすのだ。どこが終着点かも分からない、羅針盤を刻む。
廻る廻る。世界が廻る。

空が落ちてくる。

頭上を仰げば、そんな錯覚を二人は覚えた。

「空が落ちてくるまで歩こうか」
「空は落ちないよ」
明るい、笑い声が木霊する。

今年の夏はまだ始まったばかりで、早朝というだけあってまだ人通りは少ない。
広場にやってくると、二人は胸の前で手を合わせて、目を瞑る。
そして、フェルトは綺麗な声で歌いだす。それにあわせるように、いつの間にか寂しさを紛らわすために身につけた、ハーモニカをふくために、あわせていた手を離す。
フェルトは胸の前で手を組み、ヒリングはハーモニカを奏でた。
乾いた風に、歌声とハーモニアの旋律が螺旋して流れ始める。
さわさわと、緑が揺れる。
売るための花が、甘い芳香を放つ。
螺旋する運命は、空を翔けていく。

さぁ、はじめよう。
もう一度、あなたと物語を―――。


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ユウキ様へ。リクのヒリフェルトなける長編。