自分には不釣合いな、ロレックスの腕時計。 細い手首にはぶかぶかすぎて、するりと手を細めてしまえば床に落ちてしまいそうだ。 音もなく秒針を刻む腕時計を、ずっと見つめていた。 その腕時計は冷たい。手首にはめていても、今の持ち主――ティエリアの体温の温もりを反映してくれない。 普通、腕時計などの金属でできたものでも、長時間つけていれば持ち主の体温に暖められて、少しは金属独特の冷たさを失っているものだ。 でも、その腕時計はどんなにつけ続けてても、少しも温かくならない。 ティエリアの体温は、通常の人間よりやや低めであるが、それでも生きているのだから体は温かいし、皮膚に触れれば生きている人間と同じ温かみを感じることができる。 それなのに、その腕時計は、決して温かくなってくれない。 冷たいままだ。 ティエリアが唯一愛した彼・・・・・アイリッシュ系の白人男性の持ち物だ、これは。 遺品というのが一番正しいだろう。 形見というには、あまりにも忍びない。 彼は、生きてティエリアの元に戻ると約束してくれた。同じ戦場に立つ者同士、避けることのできぬ戦闘であったとは分かっている。 でも、ロックオンが最後にとった選択は、あまりにも、ティエリアを絶望に叩き落とすことしかできない結果をうんだ。 ティエリアは中性だ。女性でも男性でもない。それでも惹かれあい、ロックオン、ニール・ディランディと恋人同士として付き合っていた。それは女性と男性が付き合うのとは少し違う、まるで少年と青年が付き合うようなものに似ていたけれど、ティエリアは少年でもなかった。自我は男性のものであるが。 幼い子供のような無垢な部分をもつティエリアが、ヴェーダ以外に初めて心を開いたのが、ロックオンであった。 人を愛すること、愛される素晴らしさというものを、生まれて初めて体験した。 ほんの僅かな時間であったけれど。 幸福だった。 この瞬間が永遠ならと、祈るほどに。 「冷たい・・・・・」 全く温かくならないのが、まるで亡くなったロックオンの、頑なな意思そのものに思えて、ティエリアは仄かにピンク色なっていた唇をきつくかみ締めると、その腕時計を床に叩き落として割ってしまった。 「いらない。こんなもの、こんなものいらない!僕がほしいのは、こんなものじゃない!あなたが!あなたが、あなたじゃなきゃだめなんだ!」 顔を手で覆ったが、もう泣きすぎて涙はでてこなかった。 かわりに、枯れたような声が喉から出てきた。 「いらない。形見なんて。あなたの遺品なんて。全部、全部いらない。あなたがいない世界もいらない」 こんなことではだめだ―――そう心の中で呟いた。 まだ最後の戦闘の傷は癒えておらず、全身のいたるところに包帯が痛々しく巻かれていた。 立って歩けるくらいには回復した。 でも、まだ心の傷口は血を流し続けている。 まだ、ロックオンが死んだと、信じられないでいる。 笑顔で普通に戻ってきて、「ティエリア」と微笑みかけてくれそうな気がして。 そんな気がして、ボロボロになったトレミーを彷徨うように歩いて、ロックオンの部屋に入り、ロレックスの腕時計を戦場に出る前に、貰ったのだと思い返して、自分の部屋に戻って、大切にしまってあったそれを手首につけたけれど。 結果は、床に叩きつけられて無残な姿になったそれ。 「いらないんです。こんなもの」 拾い上げて、もう一度思い切り床に叩きつけようとして振り上げた手が、ふいに止まった。 「・・・・・・っく」 もう流れないと思った涙が一筋溢れて、床に零れ落ちた。 「何故、この世界にあなたはいないんだ!」 半ば屑折れるようにその場に座り込んだ。 壁に背を預け、長い間放心していた。」 どれくらい時間が経過しただろうか。手の中の腕時計は、割れていたけれど時を刻み続けていた。 そう、まるでティエリアのように。 壊れかけても、まだ時を刻んでいる。そして、足掻いて足掻いて生きていこうとしている。それが今のティエリア。 腕時計から目をはなす。 静謐に満ちた時間が流れた。 また、涙が溢れてきた。膝を抱えて、声もなく泣いた。 生き残った仲間たちと、行方不明のままの刹那とアレルヤの顔が順番に脳裏を横切って、ティエリアは星が瞬く窓に近づいて、最後の涙の痕を拭き取った。 「泣くのは今日で終わりだ。強くなれ、ティエリア・アーデ。彼の分まで生きて、彼がなしえなかったことを、その意思を受け継ぐんだ」 まずは、ボロボロになったこのトレミーをなんとかして、それから壊滅的な状況のCBを率いていかなければ。 リーダーが必要だ。 先を歩く者が。 指導者が。 今、なりえるのはティエリアだけだろう。生存が確認されているマイスターはティエリア一人だ。 「生きろ。泣くな。歩け。未来へ」 自分自身に命令する。 でも。 でも、まだこんなにもあなたを愛しています。 愛し続けたままでもいいですか? あなたが右目を負傷していなければ、きっとあなたは生きていた。 これは贖罪なんです。 あなたを永遠に愛し続けて、僕はけれどあなたからもう愛されない。 でも、それでもいい。 思い出の中に閉じこもらないように。 あなたを愛しながら、歩いていく。 一度は拒絶したこの世界を。 きっときっと、アレルヤも刹那も生きている。 きっと、僕は一人じゃない。 いつか、また昔のように皆で笑いあうんだ。たとえそこにあなたがいなくとも。 さぁ歩け。 歩きだせ。 彼は少し長くなった紫紺の髪を宙に靡かせた後、部屋を後にした。彼は、歩きはじめた。 そう、仲間達のそして失った最愛の人のためにも。 歩き続けるのだ。 |