失う前に









「マリナ・イスマイール。まだ起きていたのか」
じっと深海の深い紺色を眺め続けていたマリナに、刹那が声をかけた。
時計はもう深夜の0時をまわっており、トレミーにも流石に静寂が訪れている。
ガンダムマイスターを含め、誰もがいつ戦闘状況に陥ってもよいように、睡眠はきちんと取るために誰もが眠りについていた。
刹那は、先ほどまで酒によったミス・スメラギを介抱していた。 体から、ほんのりとアルコールの匂いがする。

「刹那。あなたこそ、寝なくていいの?」
マリナが、心配そうな表情になった。
客である自分は、戦闘状況になってもただの足手まといでしかない。ただ、トレミーの中でじっとしているしかないのだ。
それに、部屋を与えられたとはいえ、特にすることもなく、マリナは日常を刹那から渡された本を読んだりすることで過ごしていた。
「俺は、まだだ。ティエリア・アーデを待っている」
「ティエリアさんを?」
マリナは、絶世の美貌を持った少年のことを思い出した。
彼の性別を間違え、恥ずかしい思いをしたのはつい先日のことだ。
「ティエリア・アーデが、明日出す報告書を今纏めている。そのチェックを頼まれた」
「そう。刹那って意外に生真面目なのね」
マリナが不思議そうに刹那を見た。
初めて会った頃から、マリナにとって刹那はよく分からない存在でもあった。
彼は、とても強く見えて、しかしところどころに幼い部分も残している。
「刹那は」
「どうかしたか」
「いいえ。なんでもないわ」
ソレスタルビーイングを抜けないのか。
マリナはそう言おうとして、逡巡した。
世界の歪みを失くそうという刹那の意思は正しい。ただ、方法が武力介入によるものであるのが、マリナには納得がいかなかった。
刹那に、止めろといったところで、彼はその強い意志を折り曲げることはしないだろう。
世界が歪んでいる限り。
「マリナ・イスマイールは、眠れないのか」
「ええ、ちょっと。アザディスタンのことを考えているうちに、目が冴えてしまったわ」
アザディスタンの未来を考えると、マリナには怖かった。
国の貧困と飢餓を救えないでいる自分。
連邦政府に加わっていれば、それはなかったかもしれない。けれど、連邦政府のやり方は間違っている。それに、加わると意思を見せた ところで、切り捨てられる可能性も高かった。
マリナは長い黒髪に手をやった。
皇女として暮らしていたとはいえ、贅沢はしていない。国の現状、することもできなかったし、連邦政府に今まで捕まっていたのだ。髪の手入れなど できるはずもなく、長い黒髪は痛み放題だった。
いっそのこと、切ろうかとも思ったが、馬鹿かもしれないが髪に国が豊かになるようにと願掛けしていた。
「少し、待っていろ」
そう言って、刹那は紺色に染め上げられた窓から踵を返した。
ほどなくして戻ってきた刹那は、二つのカップを手にしていた。無言で、片方をマリナに手渡す。
ゆっくりと湯気をたち上させて、暖かいココアが入っていた。
「ありがとう」
マリナは、礼を言って中身を口にした。
ほんのりと甘い味が全身をゆっくりと満たしてくれる。疲れが取れる気がした。
マリナは刹那の優しさにも驚いていた。
刹那は、本当はとても優しい人間なのだ。
「マリナ・イスマイールの生き方を俺は否定しない。だが、俺も俺の生き方を否定しない」
「刹那」
「俺は世界の歪みを正す」
「あなたは、優しい人なのに、どうして血を流す方法を取るの?話し合いでは解決できないの?」
「話し合いで解決できていたら、ソレスタルビーイングという存在はない」
「あなたは、不器用ね。世界に優しくありたいと願っているのに、できないでいる」
「世界に優しくなど、できるものか。歪みを正すためには、優しくなどいられない」
「けれど、刹那、あなたは優しいわ。ソレスタルビーイングで過ごすあなたを見ていてそう思うわ」
「マリナ・イスマイール」
刹那が、マリナの黒曜石の瞳を見つめていた。 マリナの眼は、ありがちなただの黒なのに、とても綺麗な色に見えた。

「刹那は、飲まないの?」
一向に飲もうとしない、刹那。
「これはティエリアの分だ」
「ティエリアさんの?」
そう名前を言った瞬間、石榴の瞳をした綺麗な少年が、報告書を片手に通路からやってくるのが見えた。
「お疲れ」
刹那が、持っていたカップをティエリアに渡した。
「ああ、ありがとう」
カップを受け取って、かわりに報告書を渡す。
それに眼を通す刹那。
ティエリアは、マリナと刹那の二人きりの空間を切り崩すことを躊躇ったが、報告書を刹那に見てもらわない限り、 今日はまだ眠ることができない。
早めの休息を取るためにとった決断は、間違ってはいなかった。
マリナは、ココアを飲みながら、深海を進んでいく窓を見上げた。
どこまも深い、海の紺色。ライトに照らされて、深海生物が時折横切るのが見えた。

「刹那・F・セイエイ。少し待っていろ」
ティエリアは、ココアを飲んでしまうと、空いたカップを近くにあった窓枠に置いた。
そして、報告書を読んでいく刹那を置いて、去っていく。
ほどなくして戻ってきたティエリアの手には、刹那と同じようにカップがあった。
「紅茶だ」
ティエリアは、刹那の好みを把握していた。
刹那は、甘いものは嫌いではないが、眠る前には口にはしない。ココアは甘すぎる。
それを知っているティエリアは、変わりに紅茶を刹那に渡した。
報告書を読み終えた刹那が、ティエリアから無言で紅茶を受け取る。
そして、問題はないとばかりに、ティエリアに報告書を渡した。何も言わないのは、なんの欠点もなかった証だ。
「ティエリアさん、ご苦労様です」
マリナが、こんな時刻まで作業をしていたティエリアを労わった。
「マリナ・イスマイール姫。もう遅い、自室に戻ってください。刹那と話がしたいなら、朝起きてからでも問題はありません。刹那も、 早く寝るように」
マリナは、ティエリアの丁寧語が、刹那に対しては普通の言葉遣いになることが、自分と刹那との差のように思えた。
マリナは年上の客人であり、ティエリアはその性格故に、年上の人物には主に口調がですます言葉になる。
だが、仲が良かったり、丁寧語を話さないで良いと判断した相手には普通の言葉遣いになった。
「流石ティエリアだ。読ませてもらったが、完璧だった。お疲れ」
刹那が紅茶を飲み終えて、そう漏らした。
刹那の表情のない無愛想な顔に、やっと表情らしいものが表れた。
それは、優しい感情だった。
「刹那・F・セイエイこそ、こんな時間までつき合わせてすまなかった。お疲れ様」
ティエリアは、相手の賛美を否定することなく受け入れる。
そして、刹那を労わることも忘れない。
そんな二人を見ていて、自然とマリナの顔も綻んだ。

「ティエリア」
「どうかしたか」
「早く寝たほうがいい。眼が赤い」
「眼が赤いのは生まれつきだ。刹那、寝ぼけているのか」
ティエリアが、刹那の手から空になったカップを受け取った。
「ティエリアの目は、ルビーのように赤い」
「ガーネットのほうが、近いがな」
同じ赤に、違いなどあるのだろうか。
ティエリアには、こだわりがあった。
ルビーよりも、柘榴石と呼ばれるガーネットのほうが好きだった。あの真紅が好きだった。ロックオンに、よく ガーネットの瞳だと言われていたからだ。
報告書を折り曲げないようにしながら、器用にティエリアは窓枠に置いてあったカップも手に取った。
「僕は、自室に戻る」
「いい、片付けはおれがする」
両手にカップを持ったティエリアの手から、刹那がカップを奪った。
「刹那」
「一番疲れているのはあんただろう。早く体を休ませろ」
そう言って、刹那はカップを持っていってしまった。
残されたティエリアは、報告書に再度目を通す。マリナのことは気にしなかった。
そして、割と早く読み終えるとマリナの方を見た。
「マリナ・イスマイール姫」
「は、はい」
マリナは、名前を呼ばれて飲みかけだったココアの入ったカップから口を離した。
「明日にでも、この船は海面に浮上します。敵との戦闘が考えられます」
「それは」
マリナは、声を落とした。
ティエリアは、この深海から浮上すれば戦闘も近いだろうと考えていた。
アロウズがいつどこに攻めてくるかも分からない。
「やっぱり、戦いになるんですね」
「僕たちがいる限り、戦闘は避けれないでしょう。時期がくれば、刹那との別れもきます。刹那が欲しいのなら、はっきりと言葉に出したほうがいいですよ」
「え」
思ってもみなかった言葉に、マリナが瞠目した。
それに構わず、ティエリアはガーネットの瞳で深海を仰いだ。
「失って、始めて分かる前に。何が大切であるかに気づいたほうがいい」
遠く、遠く。
ティエリアは、紺色を見上げていた。
そして、マリナは佇む少年に声をかけれないでいた。
彼もまた、大切な人を失ったのだろう。


失って、気づく前に。
誰が大切であるかを。

失って、後悔する前に。