「茨の眠り姫」B







2016年春。

もうすぐ、卒業の季節だ。
夜流は希望していた大学を受け、首席で合格した。
他にも親にいわれて、難関大学を受けて合格していたけれど、結局は進学すると決めていた、家から一番近い大学に進むことを選んだ。

桜は、今年も綺麗に満開に咲き乱れている。
あきらの病室で、夜流は留学にかんするパンフレットに目を通していた。
このまま、あきらをおいて留学するのも、一つの手段かもしれない。現実逃避になるけど。きっと、一番辛くない選択肢だろう。
将来への可能性も広がる。
でも、できない。
あきらを、置いていくなんて。

サラサラサラ。
一番近くの桜が風で散って、病室に数枚の桜の花弁が舞ってきた。
それは風にのって、長く伸びたあきらの茶色の髪に絡まった。
それを、とってやろうとしたとき、伸ばした手を誰かに阻まれる。
「え・・・・」
夜流は、一瞬動揺した。
誰の腕だろうとみると、それはあきらの白い細い腕。少しだけ伸ばされたあきらの腕が、夜流の腕とぶつかったのだ。

「あきら?あきら!?」
あきらは、高校を休学後、退学していた。
回復の見込みがないということで、高校側からの申し出でそれを母親の瑞希も受け入れていた。
いつ目覚めるかも分からないあきら。
あきらを揺さぶるけど、反応はない。
「・・・・・・?」
あげられた腕はすぐに元に戻った。
昏睡状態の人間がするという、反射運動なのだろうか? 大脳皮質から命令がなくても筋肉が無意識に行う運動が反射運動である。あきらの場合、大脳皮質の一部にダメージがあるらしい。いや、過去形だろうか。あったらしいというべきか。
脳外科手術も入院してからすぐに行われたけど、あきらは意識を回復しない。
脳死とは違う。
脳死とは人が脳幹を含めた脳すべての機能が不可逆的に回復不可能な段階まで低下した状態のことである。だが、あきらは脳の一部にダメージをおったものの、脳外科手術によりほとんど回復している。けれど、目覚めない。医師たちも首をひねるような状態にあった。
いつ目覚めてもおかしくないのに、目覚めない。

「あきら・・・・俺を、見てくれ。もう一度・・・・愛してる・・・愛してる・・・」
夜流の透明な瞳から涙が溢れ、あきらの頬に滴った。
サァァァと風がふき、また桜の花弁があきらの髪にからみつく。

「る・・・・・」
「え?」
「・・・・・・・・・よ・・・・る」
天井を見上げている瞳は、いつの間にか開かれていた。
茶色の大きなアーモンド型の瞳。
「あきら!!」
すぐにナースコールが呼ばれて医師がかけつける。
夜流は病室をおわれた。母の瑞希が呼ばれ、医師が状況を説明する。すると、瑞希は泣き崩れた。
「夜流君・・・・入って・・・・」
「はい」
病室に入ると、あきらは起きていた。
目を確かにあけていた。
「名前を、呼んであげてちょうだい・・・・」
「あきら、あきら!!」
あきらは、ゆっくりとそちらを向く。
夜流と目が合う。
そして、不思議そうに少しだけ首を傾げる。

「・・・・・・・・・・・誰」

待ち望んでいた、あきらの言葉。
自分を見つめる、あきらの瞳。

こんなにも狂おしいほどに待っていたのに。
それが、こんなにも辛いなんて。

まるで、心臓を抉るナイフのように。

「ママ・・・・この人、だぁれ?」
「夜流君よ・・・・あなたの、大切な人」
「・・・・・・・ママ・・・・・よ・・・・る?・・・・俺の大切は人は・・・・マナだよ」
その言葉に瑞希はまた泣き崩れた。

「記憶障害なんですって・・・・認知症の状態なの・・・ああ、あきら、あきらぁぁぁぁ!!」
泣き叫ぶ瑞希の言葉を脳の中で反芻する。
認知症。独学で学んだ、脳についてのことを思い出す。後天的な脳の器質的障害により、いったん正常に発達した知能が低下した状態をいう。よく、老人にあるその障害。

「あきら・・・・俺のこと、分からない?」
震える手で、あきらの頬に触れる。
あきらはくすぐったそうにしている。
「よる・・・よる・・・・・・思い出した。夏祭りの、金魚は元気?」
にこりと微笑むあきらを抱き締める。
「あきら、あきら!!」

戻ってきた。
あきらが、戻ってきた。

でも、次にあきらの口から出た言葉に愕然とする。

「あなた、だあれ?だぁれ?ママ、この人だあれ?」
「うわああああ」
瑞希は泣きじゃくっている。
「あきら?俺のこと、分からないのか?」
「知らない。俺・・・・マナとママしか、知らない・・・・」

「あきらっ!!」

春の風が、吹く。
また花弁が、あきらの髪にまきついた。

「夏祭りの金魚は・・・・元気?夏祭りの・・・・」
壊れたように、同じことを繰り返すあきら。
幼い口調。定まることのない視線。

茨の眠り姫は目覚めたけれど。茨の眠り姫の中に、王子様の記憶は断片的にしかなかった。
あきらは、夜流を認識しているのかしていないのかあやふなな言葉を繰り返す。
ただ、夏祭りの金魚は元気?とあどけない表情で。
でも、あきらは2年経っても美しく、そしてはかなかった。

まるで桜のように。





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